2019.6.27更新終了しました。
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友達だった

子供のころから友達は極端に少なかったです。

今現在、友達は”少ない”を通り越して”いない(0人)”ですが、それによって特別困ることもありません。

「ぼっち(ひとりぼっち?)」という言葉がありますが、なんとなくイマドキっぽい単語だなと感じています。

おそらく、ネットの世界で構築された関係は考慮しないんですよね。

もしネットも含めてよいのであれば、今はぼっちではありません。

 

イマジナリーフレンドって知っていますか?

「空想の友人」、現実には存在せず自分の頭の中に住んでいる友達、それをイマジナリーフレンドと呼ぶのだそうです。

子供はよくイマジナリーフレンドを作るので、突然見えない誰かと話しはじめた我が子を前に戸惑う大人も多いのだとか。

 

私にも、イマジナリーフレンドがいた記憶があります。

ただ独立した存在として認識していたというよりも、自分の中の存在であるとわかってはいました。

なので、話しをするときにもなるべく大人がいない場所で。

 

イマジナリーフレンドの名前は「ヘンリーさん」。

え、外国人?と思いますよね。

誰よりも、私自身がそう思います。

私は今でも国外に出たことはなく、なぜなのかまったくわからないのですが、気付けば側にいたのがヘンリーさんでした。

 

”さん”というくらいなので私よりも少し年上で、見えはしません。

今こうしてブログに書いているような取り留めもない考え事の話し相手になってくれる存在でした。

脳内でひとりディスカッションをすることがありますが、それに近い状態だったと思います。

 

なにかあれば、「ねえ、ヘンリーさんはどう思う?」と話しかけました。

年上ですから、なんとなく頼れる存在。

ヘンリーさんはベラベラ喋ったりはしないので私が一方的に話しかけているのですが、話して聞かせても良い相手が側にいてくれるだけで安心したものでした。

 

小学校に上がり習い事も増え、いつの間にかヘンリーさんと話をする時間は減りました。

それに気付いたとき、私の中だけの存在である以上私が必要としなくなったら消えてしまうことを思い、とても申し訳ない気持ちになったことを覚えています。

 

夕焼けはキレイですが、怖いと感じるほどの寂しさが苦手でした。

そそくさと家の中に入り、まだ早いかな?と思う時間から電気を点けてまわります。

煌々と明るい部屋で楽しいことに興じていると、夕闇に感じた不安は少しずつ薄れました。

 

苦手なくせに、たまに庭の片隅で夕焼けを眺めました。

砂利とコンクリートの境目にしゃがみ込み、すっきりとした空を見上げて待ちます。

 

なんの変哲もなく穏やかだった午後は叱られたかのように萎み、怖い夕闇と目が合ってしまう。

電気の下で守られていれば良いのに自分から不安に食べられに行く、愚かな子供だった私の側にいてくれたのはヘンリーさんでした。

 

コメント

  1. ゆき より:

    こんにちは、あさがおさん。

    ヘンリーさん。いつもいっしょだったヘンリーさん。
    あなたが今、ここにこのことを上げたのは、卒業アルバムを捨てたことと同じではありませんよね。
    実際にいないことなど知っている。
    空想の産物であることも。
    だけどあのとき、幼い頃、ヘンリーさんはいてくれた。いつもいっしょに。
    それは確かな真実。
    あなたは忘れないために、ここにヘンリーさんのことを記したのではないでしょうか。

    私が言うのも余計なお世話ですが、どうか忘れないで。
    いつかあなたにお子さんができたら、折りをみて話してあげてください。
    理解してもらえなくてもいい。
    感じとってくれればいい。
    人の心が持っている不思議な力の一端を。

    でも、本当にそうなったら、ヘンリーさんは「忘れてくれてもいいのに」
    なんて、恥ずかしがるかもしれないね。

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